鎌倉幕府の成立年といえば、「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」と覚えた方も多いのではないでしょうか? しかし、現在の教科書では「1185年」に変更されていることをご存知でしょうか?
なぜこのように変わったのか、鎌倉幕府の成立年に関するさまざまな説を詳しく解説します。歴史がどのように研究され、変わっていくのかを知ることで、より深く日本史を理解できるはずです!
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鎌倉幕府の成立は何年?通説「1192年」の由来
1192年説が広まった背景
鎌倉幕府の成立年といえば、「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで有名です。この説は長らく日本の歴史教育において定説とされ、多くの人がこの年を「鎌倉幕府の成立」として覚えてきました。では、なぜ1192年説が広まったのでしょうか?
明治時代から昭和にかけて、日本の歴史教育では「幕府=征夷大将軍の存在」と考えられていました。そのため、鎌倉幕府の成立を「源頼朝が征夷大将軍に任命された年」とするのが当然とされ、1192年説が採用されたのです。
また、歴史教育において、覚えやすい語呂合わせが積極的に使われたことも影響しました。「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」というフレーズは、子どもたちにとって暗記しやすく、日本全国に広まったのです。
「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせの影響
この語呂合わせは、昭和時代の歴史教育の中で特に広まりました。教科書に「1192年に鎌倉幕府が成立」と明記されていたこともあり、学校の授業でこの年を習った世代の人々にとっては、今でも1192年が定着しています。
しかし、歴史学が進展し、「幕府」という概念が再検討されるにつれ、1192年ではなく、別の年に成立した可能性が指摘されるようになりました。それにもかかわらず、1192年説は長年にわたり日本人の記憶に刻まれ続けているのです。
源頼朝が征夷大将軍に任命された年
1192年説の根拠となるのは、源頼朝が朝廷から正式に「征夷大将軍」に任命された年です。当時の日本は、朝廷の権威が強く、武士の棟梁であった頼朝も天皇からの任命が必要でした。そのため、「征夷大将軍となった=幕府を開いた」という解釈が生まれ、1192年が成立年とされてきたのです。
しかし、最近の研究では「鎌倉幕府はそれ以前から実質的に機能していた」という考えが主流になっています。つまり、征夷大将軍になる前から、頼朝は独自の政権を築いていたのです。
教科書が1192年と記載していた理由
昭和時代までの日本の歴史教科書では、鎌倉幕府の成立年は1192年と明記されていました。これは、当時の歴史学が「征夷大将軍の任命=幕府成立」という前提で考えていたためです。
また、日本の歴史教育では、明確な年号で出来事を区切る傾向がありました。例えば、「1868年=明治維新」「1603年=江戸幕府成立」など、はっきりとした年で区切ることで歴史を学びやすくする狙いがあったのです。
1192年説の現在の評価
現在では、1192年説は「もはや定説ではない」とされています。多くの歴史学者は「鎌倉幕府は1192年より前に実質的に成立していた」と考え、教科書でも「1185年」が有力説として記載されるようになりました。
それでも、1192年説が完全に消えたわけではありません。今でも歴史の語呂合わせとして使われたり、年配の世代には根強く残っていたりするため、ある意味では「歴史の一部」として記憶され続けているのです。
「鎌倉幕府は1185年成立」説とは?
1185年説が登場した経緯
近年の歴史研究では、鎌倉幕府の成立年を「1185年」とする説が有力視されています。この説が広まった背景には、歴史学の進展と新たな史料の分析があります。
もともと幕府というものが「武士による独自の政治機関」と定義されるならば、頼朝が朝廷の承認を受ける前から、すでに鎌倉で武家政権を築いていた可能性が高いのです。特に1185年は、頼朝が朝廷に「守護・地頭」の設置を認めさせた年であり、これが事実上の幕府の始まりと考えられています。
実質的な支配が始まった「守護・地頭」の設置
1185年に起きた大きな出来事の一つが、「守護・地頭」の設置です。これは、全国の土地を監視し、管理する役職を頼朝が朝廷に認めさせたもので、これによって頼朝の支配が全国的に及ぶようになりました。
守護は主に治安維持や軍事の指揮を担い、地頭は荘園や公領の管理を行う役割でした。これによって頼朝は、朝廷の許可を得ながらも実質的に武士による支配を確立させたのです。
1185年の重要な出来事(壇ノ浦の戦い、平家滅亡)
1185年には、源氏と平家の最終決戦となる「壇ノ浦の戦い」が起こり、これにより平家が滅亡しました。これによって頼朝は、日本全国の武士の棟梁としての地位を確立し、事実上の支配者となりました。
また、平家の滅亡後、頼朝は全国に守護・地頭を配置し、独自の統治を開始しました。このことから、1185年こそが「鎌倉幕府の本当の成立年」と考えられるようになったのです。
鎌倉幕府の支配体制の確立
鎌倉幕府は、朝廷とは異なる独自の政治機関を持ち、武士のための政権として機能しました。頼朝は、1185年以降、全国の武士を統括し、鎌倉を本拠地として政治を行いました。
特に、京都ではなく鎌倉を拠点にしたことが大きな特徴です。これまでの日本の政治は天皇がいる京都を中心に展開されていましたが、頼朝は関東を基盤に武士政権を築いたのです。
なぜ1185年が有力視されるのか
近年の研究では、「幕府=武士による政権」と捉える傾向が強まっています。そのため、頼朝が実質的に日本を支配し始めた1185年が、鎌倉幕府の成立年と考えられるようになったのです。
実際に、現在の歴史教科書では「鎌倉幕府の成立=1185年」と記載されることが増えており、多くの学者がこの説を支持しています。
他にもある?鎌倉幕府の成立年の異説
1180年説(頼朝の挙兵)
1180年は、源頼朝が平家打倒のために挙兵した年です。この年の8月、以仁王(後白河法皇の皇子)が全国の源氏に対して平家打倒の令旨(命令書)を発し、それに応じた頼朝が伊豆で挙兵しました。
この戦いは初めは不利な状況でしたが、頼朝は関東武士の支持を受け、石橋山の戦いで敗れながらも勢力を回復し、鎌倉へ入ります。この時点で頼朝は独自の政権を樹立し、関東の武士たちをまとめる存在となりました。そのため、「頼朝が実質的な支配を開始した1180年こそが鎌倉幕府の成立年ではないか」とする説もあるのです。
しかし、1180年の時点では頼朝の勢力はまだ不安定で、全国的な支配体制が整っていたわけではありません。また、この年にはまだ「幕府」という形がはっきりとは確立していなかったため、現在では1180年説を支持する学者は少数派となっています。
1183年説(源義仲による平家追放)
1183年は、木曾義仲(源義仲)が平家を京都から追放し、後白河法皇から正式に「源氏による政権樹立」が認められた年です。この年、義仲は後白河法皇から「平家に代わる新たな政権の中心」として認められ、一時的に京都での支配を確立しました。
しかし、義仲は後白河法皇との関係が悪化し、すぐに頼朝と対立することになります。その後、頼朝の派遣した源義経・源範頼の軍勢によって義仲は滅ぼされました。
このように、1183年は源氏が正式に政権を担った年ではあるものの、それが頼朝のものではなかった点が問題です。そのため、「鎌倉幕府の成立年」とするにはやや無理があると言えます。
1184年説(頼朝が全国に守護・地頭を置く)
1184年は、頼朝が後白河法皇に認められ、全国に守護・地頭を設置する権限を獲得した年です。これは、頼朝の鎌倉政権が全国の武士を支配する体制を築いた重要な出来事であり、「この時点で幕府は事実上成立していたのでは?」とする説もあります。
特に、守護・地頭の設置は鎌倉幕府の統治機構の根幹をなす制度であり、頼朝の支配体制を確立させました。1184年の時点で頼朝は京都の政治にも影響を及ぼし始めており、全国規模の武家政権としての体制を整えていました。
しかし、正式に守護・地頭の設置が認められるのは翌年(1185年)であり、1184年の時点ではまだ完全に全国の支配を確立したとは言い切れません。そのため、この説もあまり主流とはなっていません。
1190年説(頼朝の上洛)
1190年には、頼朝が初めて京都に上洛し、後白河法皇と対面しました。この出来事は、頼朝が全国の政治に直接関与し、幕府のトップとして朝廷に認められた重要な瞬間でした。そのため、「幕府の成立は1190年なのでは?」と考える説もあります。
特に、頼朝はこの上洛によって朝廷との関係を築き、幕府の権威を確立しました。この時点で鎌倉幕府の地位は確実なものとなり、頼朝の支配は全国に及びました。
しかし、1190年にはまだ「征夷大将軍」の任命は受けておらず、正式な幕府の体制も整っていませんでした。そのため、この説は1192年説よりもやや有力ではあるものの、1185年説ほど支持されているわけではありません。
各説の比較とそれぞれの根拠
鎌倉幕府の成立年については、さまざまな説が存在します。それぞれの説の根拠を以下の表にまとめました。
成立年 | 主な出来事 | 幕府成立とされる理由 |
---|---|---|
1180年 | 頼朝の挙兵 | 鎌倉政権のはじまり |
1183年 | 義仲が平家を追放 | 源氏による政権樹立 |
1184年 | 守護・地頭の設置 | 頼朝の全国支配の始まり |
1185年 | 守護・地頭の正式認可 | 実質的な幕府の成立 |
1190年 | 頼朝が上洛 | 朝廷に認められる |
1192年 | 頼朝が征夷大将軍に任命 | 公式な幕府成立 |
このように、それぞれの年に「幕府成立」とされる根拠があります。しかし、現在の学界では「実質的な支配体制が確立した年」として1185年説が最も有力とされています。
ただし、歴史の解釈は時代とともに変わることもあるため、今後新たな研究が進むことで、新たな見解が生まれる可能性もあるのです。
なぜ鎌倉幕府の成立年が変わったのか?
歴史研究の進展による見直し
歴史は決して固定されたものではなく、新たな研究や史料の発見によって解釈が変わることがあります。鎌倉幕府の成立年が「1192年」から「1185年」へと変更されたのも、歴史学の進展が大きな要因です。
かつては「幕府=征夷大将軍による統治」という考え方が一般的でした。そのため、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年が「幕府成立」とされていました。しかし、近年の研究では「幕府とは何か?」が再考され、征夷大将軍の任命よりも、実際の支配体制の確立を重視するようになりました。
その結果、頼朝が全国の武士を統率し、幕府の統治機構の基礎を築いた1185年こそが、実質的な鎌倉幕府の成立年であると考えられるようになったのです。
教科書が「1192年」から「1185年」に変わった理由
長年、日本の歴史教科書では「鎌倉幕府の成立=1192年」と記載されていました。しかし、2000年代以降、学界の見解が変わり、教科書もそれに合わせて改訂されるようになりました。
具体的には、2013年の文部科学省の学習指導要領改訂をきっかけに、「鎌倉幕府の成立年は1192年ではなく1185年」とする記述が増えました。特に、高校の歴史教科書では1185年説が主流となり、1192年説は補足的に扱われるようになりました。
現在では、多くの教科書で「1185年に頼朝が守護・地頭を設置し、武士の政権が成立した」と説明されており、1192年説はあくまで「かつての通説」として紹介される程度になっています。
幕府の定義の違いによる影響
鎌倉幕府の成立年が変わった理由の一つに、「幕府とは何か?」という定義の変化があります。従来の歴史教育では、幕府は「征夷大将軍が開くもの」と考えられていました。しかし、近年では「武士による政権」が幕府の本質であるという考え方が主流になっています。
この新しい視点では、頼朝が朝廷の承認を得る前から、すでに武士の統治機構を作り上げていたことが重視されます。そうなると、征夷大将軍に任命された1192年ではなく、全国の支配体制を確立した1185年の方が、幕府の成立年としてふさわしいと判断されるようになったのです。
実際の政治の流れと年号のズレ
歴史の出来事は、必ずしも明確な「○年○月○日」に成立するものではありません。例えば、江戸幕府の成立も1600年(関ヶ原の戦い)、1603年(徳川家康が征夷大将軍に任命)、1615年(大阪夏の陣で豊臣氏滅亡)など、さまざまな見方があります。
鎌倉幕府の場合も同じで、頼朝が1180年に挙兵し、1185年に全国支配を確立し、1192年に正式な地位を得るという流れの中で、どこを「成立年」とするかによって解釈が分かれていました。
現在は「実質的な支配が始まった時点」を重視する傾向が強いため、1185年が最も適切な成立年と考えられるようになったのです。
学界の最新の見解
現在の日本の歴史学界では、鎌倉幕府の成立年は「1185年」が定説となっています。これは、日本史の専門家による研究の成果であり、多くの学者がこの年を支持しています。
ただし、歴史は常に新たな発見や研究によって変化するものです。今後、新たな史料が見つかれば、鎌倉幕府の成立年に関する議論がさらに深まる可能性もあります。
鎌倉幕府の成立年問題をもっと深く知る
鎌倉幕府の特徴と他の幕府との違い
鎌倉幕府は、日本史上初めての本格的な武家政権であり、後の室町幕府や江戸幕府とは異なる特徴を持っていました。その最大の特徴は「東国(関東)を本拠地としたこと」と「朝廷との共存関係」です。
鎌倉幕府は京都ではなく鎌倉に拠点を置き、東国の武士団を中心に政権を運営しました。これは、後の室町幕府や江戸幕府が京都や江戸に政治の中心を置いたのとは大きく異なります。
また、鎌倉幕府は天皇や朝廷を完全に排除するのではなく、一定の権威を認めつつも、武士による政治を行うという独自の形を取っていました。そのため、幕府の成立年をどこにするかという問題も、朝廷との関係をどう捉えるかによって変わってくるのです。
幕府成立の定義とは?「武家政権」としての視点
「鎌倉幕府の成立年がいつか?」という問題の根本には、「幕府とは何か?」という問いがあります。歴史学の視点から見ると、幕府の成立を考えるポイントは以下の3つです。
- 武士による政権が確立した時点(1185年説)
- 朝廷の承認を受けた時点(1192年説)
- 全国統治の仕組みが整った時点(1185年・1192年以外の説)
このように、何を重視するかによって成立年は異なります。最近の歴史学では、①の「武士による政権の確立」が最も重要とされており、そのため1185年説が有力になっています。
歴史の解釈の変化が示すもの
鎌倉幕府の成立年が変わったことは、歴史の解釈が時代によって変化することを示しています。例えば、戦前の日本では天皇中心の歴史観が強調されていたため、鎌倉幕府の成立も「朝廷の承認を受けた1192年」とされていました。
しかし、戦後の研究では「武士の視点」から歴史を見直すようになり、「実際に支配が始まった1185年の方が妥当ではないか?」という議論が高まりました。このように、歴史は固定されたものではなく、新たな視点で再評価されることがあるのです。
学生や歴史ファンにおすすめの書籍・資料
鎌倉幕府の成立年問題についてもっと詳しく知りたい方には、以下の書籍や資料がおすすめです。
- 『日本の歴史5 鎌倉幕府と蒙古襲来』(講談社学術文庫)
- 『日本中世史講義』(ちくま新書)
- 『鎌倉幕府の誕生』(岩波新書)
- 『日本史の論点』(中公新書)
これらの本では、鎌倉幕府の成立年問題をはじめ、中世の日本史について深く掘り下げています。特に学術的な視点からの解説が多く、歴史に興味のある方には非常に参考になるでしょう。
歴史は変わる?未来の歴史研究に期待されること
歴史は、常に新たな研究や発見によって変化するものです。例えば、近年では古文書や考古学の成果によって、これまでの通説が覆ることも珍しくありません。
鎌倉幕府の成立年問題も、今後の研究によってさらに議論が深まる可能性があります。たとえば、新たな史料が発見されれば、1185年説や1192年説以外の新説が登場するかもしれません。
歴史を学ぶことは、単に過去の出来事を暗記するだけでなく、「なぜそう考えられるのか?」を探求することでもあります。鎌倉幕府の成立年問題を通じて、歴史の面白さや奥深さを感じていただけたら幸いです。
まとめ
鎌倉幕府の成立年は、「1192年」と長らく教えられてきましたが、現在では「1185年」が定説となっています。その理由は、従来の「征夷大将軍任命=幕府成立」という考え方から、「実際に武士政権が機能し始めた時期を重視する」という視点に変わったためです。
鎌倉幕府の成立年に関する主な説
- 1192年説:頼朝が征夷大将軍に任命された年
- 1185年説(現在の有力説):頼朝が守護・地頭を設置し、全国支配を開始した年
- 1180年説:頼朝が挙兵し、鎌倉に拠点を置いた年
- 1190年説:頼朝が上洛し、朝廷から正式に認められた年
なぜ1185年説が定説になったのか?
- 幕府の定義が「征夷大将軍の任命」から「実質的な支配の開始」に変わった
- 守護・地頭の設置が頼朝の全国統治の始まりと見なされるようになった
- 近年の歴史研究の進展により、1192年説の根拠が見直された
歴史は変わる?
鎌倉幕府の成立年が変わったことは、歴史が固定されたものではなく、研究が進むことで解釈が変わることを示しています。今後、新たな史料が発見されれば、また別の年が有力視される可能性もあります。歴史を学ぶ際には、単なる年号の暗記ではなく、「なぜそう考えられるのか?」を意識することが重要です。
鎌倉幕府の成立年問題を通じて、日本の歴史の奥深さに興味を持っていただけたら幸いです。